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鍛冶 哲也
この世には完全な白もなければ完全な黒もない。その中間のグレーゾーンの中でフォースのバランスを見い出すことが大切。しかしバランスというものは固定化できない揺らぎ揺れ動くものであるので変化し動き続けることが必要。
Interests: 人間は歩く情報のカタマリである
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ようこそいらっしゃいませ。 「ネットの未来記」というタイトルのこのブログ、本日よりURLが変わりまし... Continue reading
Posted Jun 30, 2012 at ネットの未来記
このブログが参加しているブログポータルサイトの「ブロガーズネットワーク翼」は、2010年6月から管理... Continue reading
Posted Jun 24, 2012 at ネットの未来記
ラジオのパーソナリティ、小島慶子という人のインタビュー記事がおもしろかった。いろいろ考えさせられるこ... Continue reading
Posted Mar 24, 2012 at ネットの未来記
技術開発という点において、それをちゃんと企業内で評価しない制度に問題がある。 ちきりんのブログで本テーマに少し関連するような投稿がありました。 「エンジニア人生のリアル」Chikirinの日記 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120324
う~ん。どうでしょう。コツコツとでも修復する決意があればいいんでしょうが、苦しい今この時を踏ん張って頭を低くして耐え忍べば、そのうちまた良くなるはず。みたいな問題の先送りがあちこちにあるんじゃないかなっていう・・・ 或いは、問題はわかっているけど、どうしていいかわからないってケースも確かにあるんでしょうけどね。でもそこで思考停止してしまうのはやっぱりマズイんじゃ・・・ 会社をたたむっていうのも、選択肢のひとつだっていう覚悟も必要なのかなって。まあ、確かに言うのは簡単なんですけれども・・・
Toggle Commented Mar 21, 2012 on 危機感のない人達 at ネットの未来記
ふむふむ。ミスマッチってことですね。就職活動ってぇやつは、ある意味すごいギャンブルなので、やっぱりみんな悩むのでしょうね。それはあたり前なことだと思いますけど。 完璧なマッチングなんてどこにもないと、今だから思いますけれどね。
現状維持に執拗に凝り固まって変えるということを頑なに拒む風潮について書いた「危機感のない人達」という... Continue reading
Reblogged Mar 19, 2012 at ネットの未来記
リンクを読みました。 ITリテラシーが断絶をつくる。或いは格差を。その認識においては同感です。 その差を埋める取り組みが必要である。 それは私も同意します。しかしそのために今、猛烈なスピードで進行している変化にブレーキをかけるべきではない。 一番遅い人間に速度を合わせるべきではない。そう考えます。それがたとえ遅い人間を置いてけぼりにすることにつながるとしても。機会は公平であるべきである。だが、それは最後尾にあわせることではない。 テレビしか使えない人間はテレビを使っていればいい。便利なテレビが欲しくてタブレットを買った人間に、ネットやアプリやソーシャルなコミュニケーションなどの新しい可能性への体験の機会を提供することが重要だと思うのです。 その提案や呼びかけにのってこない人間を救済する必要を私は感じない。 それは選択です。 あくまでも自分のことだけに閉じていることを望む人間に、外の世界を理解させることはできない。それは本人の選択です。 外の世界とつながることがこんなに簡単になったのに、それを拒むということはそういう選択をしたのだというしかない。 家畜でいたいと望む人のことは方っておけよというのが私のスタンスかもしれません。そうじゃないあり方へのチャンスは平等にあるべきだと思います。 家畜でありたいと強く望む人の説得を私はしたいと思わない。 ちょっと極論かもしれません。というか、家畜という言葉自体がアウトかもしれませんね。
あははは。確かに。 でも考えてみればテレビの操作くらいだったら音声認識でもいけそうですね。いくつかのコマンドだけ識別できればいいわけで。 言葉で命令する操作感ってどうでしょうね?「かしこまりましたご主人様」って返事したりなんかして。(^^; 今のテレビにはそれをこなすくらいのCPUは積んでいないから無理なのか。それだけのためにコストアップするんじゃーねー。
ツィッターの利用者は既にテレビの実況はやっているので、まあインパクトないでしょうね確かに。 そうじゃない人たちにとって、テレビという機械を通じてツイッターに触れた時に、おもしろいと感じるかどうかが問題なのかな。その人たちに無視されちゃったら意味ないですもんね。 入力に関しては音声でいければいいですね。Siriみたいに。
「スマートテレビに買い換える事で一体どのような未来を体験できるかメーカが提示できていないからだと思います。」 他者にマネできない新しい付加価値の提示ということですよね。正にアップルがiPhoneで提示したような。 iPhoneの時には新しい技術の発明はなかった。既存の技術の組み合わせだった。 東浩紀という人が「一般意思2.0」という本で、国会中継をニコニコでやって、ユーザのコメントを国会にフィードバックするみたいな(例えですけどねこれ)ことをやったらどうかと書いてました。 これの延長で、お茶の間のテレビも番組見てる最中にニコ動みたいなコメント流しちゃうってのはどうでしょうね。今でも番組によってはツイッターとのダブルスクリーンでやってることだけど。テレビのリアルタイム感を共有して参加感が得られるってことだと思うけど。 解説も疑問もウンチクもツッコミもシロートの方がおもしろかったりする時代だし。 テレビを双方向にするって言ったらとりあえずそんな方向性のような気がします。 東さんの意見も、(なんらかのテクノロジで集約した方がわかりやすいだろうとは思うけど、)ユーザのコメントは垂れ流しで別にわかりやすい集計や集約はとりあえずはなくてもいんじゃね?という風に私は理解しました。
2012/03/13 東北から日本復活 ~顧問業の現場から~ by sugibeya 自身もバブルど... Continue reading
Reblogged Mar 17, 2012 at ネットの未来記
パナソニック、シャープ、ソニーなど日本の大手家電メーカーは、巨額の赤字が続き、社長やCEOが退任する... Continue reading
Reblogged Mar 17, 2012 at ネットの未来記
VOCALOIDという音声合成ソフトのイメージキャラが、CGという視覚化をともなってリアルなコンサート会場(東京ドームシティホールというキャパ3,000人位のとこらしい)でリアルな観客を集めてライブを演る。そしてそれを有料でニコ動で生中継する。そんなミクの日大感謝祭というイベントについて書かれたブログを見つけました。長いけど。ミクという現象についての考察もあっておもしろい。ミクはわかる人にだけわかる「踏み絵」である。 【ミックミWeek】初音ミク現象で、ヤバイ「何か」が起こっている気がする考察。 http://pekokinta.blog.fc2.com/blog-entry-21.html そしてその同じ人がミクの日大感謝祭を実体験したレポートがこちら。 【ミックミWeek】初音ミクと言う天使が舞い降りた・・・あり得ない現実が起こる奇跡のコンサート!(その2・コンサートの実際) http://pekokinta.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
上の本文で引用した坂村健氏の文章にある「プライバシーの外部化」、「新しいプライバシー管理」についての以前のコラムというやつを検索したのだが、同じ毎日新聞の「時代の風」というコラムなのだが、毎日のサイトからは既に削除されていて、その本文はみつからなかった。読者による毎日のサイトへのリンクを貼ったはてブやリンクサイトはあるのだが、肝心のそのリンク先が削除されていてその内容にはアクセスできない。 坂村健という筆者もわかっており、「時代の風:ソーシャルログの時代へ」というタイトルもわかっているのだが、その内容を知ることはできない。 このネットの時代にこれは、相当にストレスのたまる状況である。新聞に掲載されたコラムなので、図書館とかにいけば読むことはできるはずではあるが、ネットにリンクは残っているのにそのオリジナルが削除されているというのはかなり不自然な状況ではないだろうか。 「坂村健」と「ソーシャルログ」というワードで検索すると、ユーザによるリンクのサイトがでてくる。本体はでてこないけれど。
「ビッグデータ」というのが今、IT関係での流行語である。 いわゆるバズワード。定義が曖昧でその時点で... Continue reading
Posted Mar 10, 2012 at ネットの未来記
プログラムは同じ歌を何度でも何度でも同じように再現することができる。 一方、人間はというと。 同じ歌を何度でも全く同じように歌えるということは、技術的な問題なんだと思う。普通はできない。 もちろん、「同じように歌う」ということをどの程度の精度で判定するかという問題はあるけど。評価のシビアさというか。表現の細部をどこまで読み取るかということだ。 大雑把に聴いてる人にとっては関係のない話し。どこまで気にするか、どこまでこだわるかの問題。一般には制作者の方がディテールにはこだわる。聴いてる人たちはあんまりそのディテールの違いがわからないことが多いと思う。 それは言語表現におけるディテールへのこだわりも同じだ。 精緻さにこだわるというのは美意識の問題なのだろうか。そういう意味での大雑把な人間にはなりたくないな私は。「違いの判る男」というコピーが昔あったが、そう考えると深いコトバだ。 指先の表現とか、ディテールをおろそかにしないということは様々なジャンルで重要なこと。 「神は細部に宿る」という言葉もあるが、いろいろな解釈ができる、含みのある言葉だな。 その一方で、細部は全部ばっさり切り捨てて、一気に本質に切り込むというやり方もある。 表現技術にこだわるか、コンテンツそのものの本質にどこまで迫れるかその掘り下げ方にこだわるかの違いかな。「生きるとは何か」という問いかけというか。   情緒的な言い方になるけど、「魂の叫び」みたいなものには技術は関係ない。 技術的な表現は繰り返し再生が可能だが、「魂の叫び」はそういうわけにはいかない。 
そのNHKの番組のテキスト版をみつけました。 思いが伝わる声を作れ ~初音ミク 歌声の秘密~http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3166&html=2 プログラムに人間の歌声を真似させるための技術というのを読んで、人間が歌う時の技術というものに考えが及びました。 心を込めて歌うという言い方があります。言うのは簡単だけどやるのは難しい。 それを表現しようとすると、歌うということの技術を意識する必要がある。音程の取り方。音の上げ下げ。異なる音程の間をどんなタイミングでどうつなげるのか。どこにどんな風に強弱をつけるのか。どんな風に声にビブラートをかけるか。どれ位音を延ばすか。息継ぎをどこでどうやるか。 全部計算する訳ではないけれど、そういった技術的要素に意識を配ることで歌に変化をつけることができる。ま、うまい人は計算ではなく体感でそれをやるのだと思いますけれど。経験値によって。いわゆる体得というやつですか。 感情のこもった歌というものをコピー(再現)しようとする時にはそういう技術的な部分での再現が必要になる。要素還元。分析と模倣。 ある意味ではエモーションそのものも分析と要素還元可能なものなのかもしれません。人間という存在そのものがつぎはぎだらけのコピーなのではないかという私の人間観です。    
コメントありがとうございます。リンクを見ましたが、そこにつけられたコメントの数々の方がむしろおもしろかった。NHKのサイトにコメントする人はやはりちょっとユーザ層が違うようにも感じた。 単なる印象ですが、若者は少なく中高年が多いような。「ボーカロイドはミクだけじゃない。もっと高性能なのもある。ミク以外のボーカロイドを無視するな」といったコメがいくつか散見されましたが、恐らくそれが「NHKでミク」に釣られたヲタ系の若者のものであろうかと。 中高年と思しきコメントには、やはり激しいジェネレーションギャップを感じます。その違いはきっとマスメディアを信じているかいないかの違いかもしれない。そのギャップは、すごくすごくものすごく大きな断絶ではないかと私は考えています。今の日本にはふたつの人種が共存している。あまり交わらずに。 ニュータイプとオールドタイプ。    
初音ミク、大ブームというのともちょっと違うけど、いろいろメジャーになってきている。と思う。何を持って... Continue reading
Posted Mar 5, 2012 at ネットの未来記
上でもなく下でもなく身の丈。その通りだと私も思います。幸せを感じるためには身の丈の自分を受け入れ、肯定することが大切だと。 身の丈以上の自分を求めると、いつまでも満たされることがない。そしてその不満や不安は他者への攻撃に向かうことが多い。自分よりも幸せそうに見える他者への憎しみに。ルサンチマン。 そしてまたどうせ自分なんてといった自己否定もまた幸せにはなれない。自己卑下という姿勢もまた間違っていると私は思います。 結局、それらは基準が自分の外にあるのではないかという気がする。価値の基準が自分の中にないのではないか。自分を基準にするということは自己満足を追求するということでもある。そしてそれは自分さえ満足すればそれで幸せを感じることができるということでもある。 ではどうすれば自分を満足させることができるか。自分で判断すること。自分で目標を定めること。自分が何を求め、何を快く感じるのかを知ること。そしてそれを得るための努力をすることでしょう。 それを自覚的に進めるならば、結果の如何にかかわらず満足を得ることができるような気がします。結果が望どおりでなくても満足を得ることが可能であるように思います。 自分が何をやり、何をやらなかったか。満足の基準がそこにくるから。全ては自分次第だと思うことができれば。 だってどんなに頑張ったって天気を変えることはできないから。変えられないものを変えようと努力するよりも、変えられるものに向かって努力するべきでしょう。変えられるものを変えていく。 変えられるもの。それは自分。自分の行動。それを通じてもっと大きな目標を目指すということは別に矛盾しない。自分を変えることを通じて世界を変えることを夢想することは可能だし、それは限りない欲望にとらわれることにはならない。 うまくいえないけれど、それは身の丈を肯定しながら、それを大きくしていくことを目指すというような感じ。 ちょっと違うかな。 世界を変えるとすれば、それをするのは自分ではなく共感。その共感を広げるプロセスに自分が関わることは充分に可能なことであるはずだと。 ポジティブであることは大切なことだと思います。
「自分が否定されることに慣れている」ですか。なるほど。 そういえば、もとコンサルタントの勝間さんはひろゆきとの対談での上から目線的な態度が批判の対象となって自分のブログが炎上して、その時にブログのコメント欄を封鎖してしまったことがあって。 その時には、否定されることに慣れていないのかなという印象はあったかも。ひろゆきとの対談のテーマのひとつが「ネットは実名にするべきかどうか」だった訳で。匿名だから無責任な非合理な批判が横行するので実名を強制するべきだという勝間さんの意見は、対談以前からネットでの批判にはさらされていた経験があってのものだったのでしょう。 まあはたから見ていてもあの人の言動には、叩かれやすい何かがあるように見えますからね。 ただ、私が思うのは、金持ちとか成功者と呼ばれる人達が果たして幸せかというとそうではないような気がするのです。むしろ金持ちでかつ幸せでいることの方が難しいことのように思われるのですが。 仏教が説くように欲望はなるべく捨てた方が幸せになれる。 それにしても、ネットで吹き荒れる批判の言葉は確かに人を傷つける力を持っている。暴力のひとつであるとは思う。けれどそうした暴力を振るう人達がおそらくは恵まれない環境にあるのだろうという想像があって。 こんな考え方自体も上から目線なのかもしれないと思いつつ。暴力を振るう人が少なくなるような方向に世の中が進むためには、何が必要なのだろう? その答えもまたネットの中にあるのではないだろうか、なんてことを夢想するのです。人と人とのつながりの中に。
それにしてもどうしてそんなにルサンチマンを抱えた人が多いのだろう。 どうしてそんなにも不幸なのだろう。この国では餓死する人は稀である。貧乏でも携帯電話は持っていたりする。他の国と比較しても、そして過去の歴史と比較してもこの国は豊かだと私は思う。それなのになぜそんなに不幸なのか。 これほど価値観が多様化しているというのに、どうして人は金持ちかどうか、社会的地位が高いかどうか、そんなことで幸福を測ろうとするのだろう? どうしてそんなに金持ちや成功者を妬むのだろう? どうして自分の中に王国を創ることができないのだろう? いや、自分の中の王国と自分の外に広がる世界とがコンフリクトしているのが理由なのか? それって単にコドモだってことだよな。
“「頑張ること」それ自体に価値があるのはアマチュアの世界、価値がないのがプロフェッショナルの世界であ... Continue reading
Posted Feb 24, 2012 at ネットの未来記